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浦和地方裁判所 平成元年(わ)663号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  公訴事実と争点の概要

本件公訴事実は、「被告人は、平成元年六月一四日午前一〇時ころ、埼玉県岩槻市〈住所省略〉甲田美容室前路上に駐車中の普通乗用自動車内から、甲田一郎所有の現金五〇〇円位及びテレホンカード一枚ほか四点在中の手提げバッグ一個(時価合計三万五〇〇〇円相当)を窃取したものである。」というものである。

ところで、本件においては、公訴事実記載の日時、場所において、何者かにより同記載の金品が窃取されたことは、証拠上疑問の余地がないが、被告人は、捜査・公判の全過程を通じ、「問題の手提げバッグを取った事実はないし、公訴事実記載の日時頃に、その場所にいたこともない。公訴事実記載の甲田美容室がどこにあるのかすら知らない。」旨供述し、弁護人も右被告人の供述を援用して、被告人は無罪である旨主張している。

二  本件の基本的事実関係及び証拠構造

1  まず、証人甲田一郎及び同乙山太郎の当公判廷における各供述、証人丙川春子に対する当裁判所の尋問調書(以下、それぞれ、「甲田証言」、「乙山証言」、「丙川供述」という。他もこの例による。)、甲田一郎作成の被害届、司法巡査作成の所持金品確認報告書、一件記録中の逮捕状の記載などによれば、〈1〉本件被害者である甲田一郎(以下、「甲田」という。)が、平成元年六月一四日午前九時頃から、叔母甲田春子経営の甲田美容室(埼玉県岩槻市〈住所省略〉)前路上に、普通乗用自動車を西向きに停めて、近くの作業場で仕事をしていた際、右車両の助手席に、現金や小銭入れ、カード類など在中の手提げバッグを置き放しにし、ドアロックをしないでいたところ、同日午前一〇時頃、何者かが右車両のドアを開けて手提げバッグを窃取したこと、〈2〉同市〈住所省略〉丙川夏男方に居住する主婦丙川春子(以下、「丙川」という。)は、右車両から約八〇メートル東方に位置する同人方庭先及び屋内から、犯人の窃取直前の行動及び窃取の状況等を目撃し、甲田方に対し電話でその旨を通報したこと、〈3〉丙川から通報を受けた甲田は、付近を廻って犯人を捜したが見つからなかったため、丙川から犯人の人相・風体を聞いた上、同日、埼玉県警察岩槻警察署(以下、「警察」又は「岩槻署」という。)に被害届を提出したこと、〈4〉右被害届の提出等により本件被害の発生を知った岩槻署は、甲田の話などから目撃者丙川の存在を知ったが、他の事件の捜査中であるなどの理由により、丙川からの事情聴取を直ちには行わず、同署が右事情聴取を行ったのは、事件発生から一ケ月以上経過した時点のことであったこと、〈5〉他方、被告人は、同年七月六日、その五日前に岩槻市〈住所省略〉所在のA方から窃取された横線小切手を、小西義久という偽名を用いて換金しようとして、埼玉銀行千間台支店に現れたところ、行員からの通報により同支店に急行した岩槻署警察官から同署への同行を求められた上、有印私文書偽造、同行使、詐欺未遂の被疑事実(以下、「別件」という。)で岩槻署に逮捕されて取調べを受けた結果、所持品の中に、被害者甲田により本件被害品の一部であると確認されたジョルダンの小銭入れ一個及び同じく被害品のテレホンカードと同一の図柄のものと確認されたテレホンカード一枚(「川中島大合戦」と題し、武田信玄の図柄の入ったもの)があることが発覚し、右別件による逮捕勾留期間の満了した同月二七日、改めて、本件窃盗の被疑事実で逮捕され、引続き勾留の上起訴されたが、前記のとおり、被告人は、捜査・公判の全過程を通じ、犯行を否認する供述をしていることなどの事実が明らかである(なお、右別件については、結局公訴提起がなされておらず、検察官は、第六回公判期日において、右別件について追起訴する意思はない旨釈明した。)。

2  ところで、以上の事実を前提にして、検察官は、〈1〉被告人は、別件で逮捕された際、本件被害品の一部と確認された小銭入れ等を所持していたものであり、その入手状況についての弁解が不合理であること、〈2〉本件犯行の目撃者丙川の供述する犯人の特徴と被告人のそれとが多くの点で一致すること、〈3〉被告人が、本件の盗品以外にも、盗品もしくは盗品と推測されるものを多数所持していたこと、〈4〉本件当時、被告人は所持金に困っていたこと、〈5〉被告人は、本件現場付近に行ったことがない旨供述しているが、それを覆すに足りる目撃証言があること、〈6〉被告人にはアリバイがなく、アリバイの主張を一切していないこと、〈7〉被告人は、窃盗の前科二犯を含む財産犯の前科七犯を有することなどの諸点を指摘し、これらの事実関係を総合すれば、被告人が犯人であることの証明は十分である旨主張している。

3  右のとおり、当公判廷で取り調べた証拠の中には犯人と被告人との同一性を認めさせる直接証拠は全くなく、検察官の主張によっても、右同一性の認定は、右〈1〉ないし〈7〉の情況証拠を総合して行うべきであるとされているのであって、他に、右認定に役立つ証拠ないし事実関係はこれを見出し難い。そこで、以下においては、右〈1〉ないし〈7〉の事実が、犯人と被告人との同一性を認定する上で、どの程度の証拠価値を有するかを検討し、最後にこれらを総合して被告人の有罪認定をなし得るか否かを検討することとする。

三  被告人が本件被害品の一部を所持していたこと及びその入手状況に関する弁明の合理性について

1  被害品である小銭入れとテレホンカードの所持の事実

まず、甲田証言、甲田作成の被害届、押収してある小銭入れ一個(〈証拠〉)によれば、被告人が別件による逮捕時に所持していた小銭入れは、甲田の自動車内から窃取されたものと同一物であると認めるのが相当である。右の点につき、弁護人は、この種の小銭入れ自体、特に珍しいものではないし、中に入っていたお守りもデパートで配っていたものであるから、必ずしも甲田の物とは確定できない旨主張するが、被告人の所持していた小銭入れ(皮製二つ折で、ホックで止めるようになっている。色は、表が灰緑色、裏が茶色であり、表面下部にジョルダンのマークが入っている。)及びその中に入っていたお守り(表面は白色の紙で包まれ、赤い模様の中に開運・商売繁昌などと書いてあり、中に虎の模様の入った小判様のものが入っている。)は、いずれも、甲田が被害届提出の段階から指摘している被害品の特徴とほぼ完全に符合するかなり顕著な特徴を有するところ、右のようにかなり顕著な特徴を有する二個の物品の組合せが、甲田の所持品とは別個に存在する蓋然性は著しく小さく、事実上零に等しいと考えられるから、右弁護人の主張は、採用し難い。

次に、前記テレホンカード(〈証拠〉)は、甲田の当初の被害届に記載がなく、また、これと同種のテレホンカードは、約一〇万枚発行されているとの由であるので(乙山証言)、これが間違いなく被害品の一部であると断言するのはやや躊躇されるが、「警察で、被告人の所持品を見せられるまで、盗まれた手提げバッグにテレホンカードが入っていたことは忘れていたが、それを見たとき思いだした。使用度数もほぼ合うし、間違いないと思う。」旨の甲田証言には格別不自然・不合理な点は見当らないと認められる上、被害者が窃取されたと主張するのと同一図柄の、被害品ではないテレホンカードが、被害品であると確認された前記小銭入れと、たまたま同じ時期に被告人の手元に集まる蓋然性は、著しく小さいと考えられるから(ちなみに、被告人も、右小銭入れとテレホンカードは、同一人から入手した旨供述している。)、右テレホンカードも、やはり被害品の一部であると認めるのが相当である。

2  入手状況についての被告人の供述の合理性

そうすると、被告人は、本件被害発生の日から二二日経過した時点において、本件被害品の一部を所持していたことになる。そして、小銭入れやテレホンカードが、通常、転々流通を予定するものでないことを考えると、右の点だけからでも本件窃盗の犯人は被告人ではないかとの疑いが生ずることは、これを否定することができない。一般に、窃盗の被害発生の時点と近接した時点において、盗品を所持していた者については、右物品の入手状況につき合理的な弁明をなし得ない限り、右物品を窃取したものと推認してよいと考えられているが(いわゆる「近接所持の法理」)、右は、もともと、〈1〉被害発生の直後であれば、被害品は、いまだ窃盗犯人の手中にあることが多いという経験則、及び〈2〉その時点であれば、窃取以外の方法で右物品を入手した者は、自己の入手方法について具体的に弁明し、容易にその立証をすることができるはずであるという論理則を前提とするものであって、窃取時期と所持の時期が離れれば離れるほど、被害品が窃盗犯人の手中から離れる可能性が増大し、また、真に、他から窃取以外の方法でこれを入手した者であっても、所持者の入手状況に関する弁明の立証が不成功に終る蓋然性も増大することが明らかであるから(時の経過による証拠の散逸)、右法理を具体的事案に適用するにあたっては、盗品所持と被害発生の各時期の間隔と、入手状況に関する所持者の弁明の合理性等を比較衡量した上、慎重に検討する必要があることは、論を俟たないところである。

ところで、まず、本件においては、被告人が盗品を所持していたのが被害発生の直後ではなく、被害の発生と被告人の盗品所持の各時点の間に、二二日という間隔がある点をどう考えるかが問題となる。もちろん、二二日という時間的経過それ自体は、見方によって長いとも短いともいえるが、これだけの日数が経過する間には、社会生活上、盗品が窃盗犯人から第三者の手に渡るという事態の生ずる相当程度の蓋然性があることは、これを否定し難いというべきであろう。また、本件において、被告人が小銭入れやテレホンカードの入手状況について取調べを受けるようになったのは、別件による逮捕から更に二〇日以上を経過し、被害の発生からは四十数日を経過した七月末のことであって、被告人の入手状況に関する弁明の合理性の有無を検討する場合には、右のような点について、十分考慮を払う必要がある。

そこで、右のような観点に基づき、右小銭入れ及びテレホンカードの入手状況に関する被告人の弁明の合理性につき検討する。右の点に関する被告人の弁明は、「岩槻公園にたむろしていた四〇歳位の名前を知らない男と小銭入れを交換し、テレホンカードをもらった。」というもので、その限りでは、右弁明の筋は、捜査・公判を通じ一貫している。もっとも、右弁明の内容は、通常の社会生活を営む者の目からみると、いささか不自然の感を禁じ得ないが、さりとて、公園等にたむろする浮浪者又はこれに類する者の間で、右弁明に現れたような行為が行われることがないと断ずることもできず、右弁明は、その内容自体に照らし、社会生活上およそ考えられない荒唐無稽なものであるとか、不合理不可解なものであるということはできない。

そこで、更にその内容を具体的に検討すると、その入手時期に関する供述は、捜査段階では、「日にちははっきりしないが、五月末か六月初め」(〈証拠〉)とされていたのが、公判段階では、「六月とは思う。」(〈証拠〉)「六月初め」(〈証拠〉)「はっきりしない。」(〈証拠〉)となり、その間に若干の動揺がある上、右のうち、特に捜査段階の供述は、証拠上明らかな本件被害発生の日(六月一四日)と客観的に矛盾しているので、右弁明は、その意味において問題を含むものといわなければならない。しかしながら、被告人が小銭入れの入手時期について本格的な取調べを受けたのは、被害の発生から二ヶ月近い日時の経過した平成元年八月初旬のことと考えられるのであって、当時の被告人のように、格別稼働することもなく、公園でたむろしたり、競艇等で遊び暮らしていた人間が、そのような日常生活の中で発生した小銭入れの入手という些細な出来事の時期を正確に記憶していないということは、決して不思議なことではないから、入手時期に関する被告人の弁明の問題点は、これをそれ程重視することができない(むしろ、被告人が、もし本件窃盗の犯人であるとすれば、入手時期につき、自己が最もよく知っているはずの犯行の時期と矛盾する弁明をするはずがないとも考えられるわけであって、捜査段階において、被告人が、入手時期について被害発生の時期と矛盾する弁明をしたのは、真実、被害発生の時期を知らなかったから-換言すれば、当該物品を窃取したのが被告人でなかったから-であると考える余地すらある。)。また、岩槻署の乙山太郎警察官(以下、「乙山」という。)は、被告人の供述するような人物の存否に関する捜査結果について、「岩槻公園で作業している人から聞いたが、そういう男はいないということだった。」旨証言しているが(〈証拠〉)、右聞込み捜査の時期、範囲等の詳細は明らかでないのみならず、前記のとおり、被告人が小銭入れの入手状況に関する具体的供述をしたのが七月末のことであるから、それより以前に右捜査がなされたとは考えられないところ、右の時点では、いずれにしても、被告人がこれを入手したという時期から相当の日数が経過しているわけであるから、乙山が岩槻公園における聞込み捜査によって、被告人の供述するような人物を発見することができなかったという一事から、被告人の弁明を虚偽と断ずることはできない。

以上のとおり、小銭入れとテレホンカードの入手状況についての被告人の弁明は、必ずしも説得的ではないが、逆に著しく不合理・不可解であるとか、証拠に照らして虚偽であると断ずることはできず、社会生活上あり得ないことではないと考えられるので、結局、被告人が逮捕当時盗品の一部を所持していたという事実は、被告人と犯人との同一性を肯定する上で、それ程大きな意味を有しないといわなければならない。

四  丙川春子の識別供述について

1  丙川識別供述の概要

本件犯行現場の東方約八〇メートルの地点から、犯行状況等を目撃した、当時二七歳の主婦丙川春子(以下、「丙川」という。)は、その目撃状況等につき、概ね、次のとおり供述している。すなわち、「六月一四日午前一〇時前後頃、自分が自宅の庭で洗濯物を干していると、自宅から約八〇メートル西方の甲田美容室前路上に駐車していた自動車の運転席側に男がいて、右自動車内を覗き込んでいるのが見えたが、男がそばの電信柱で立小便を始めたので、目を離した。次にまた見ると、男は自転車に乗って、自分の家の方へ向かって来たので、洗濯物の間に隠れ、一旦、家の中に入ったが、その時、その男が自分の家の裏を通り過ぎて行くのが見えた。更に、間もなく、家の窓から、男が自転車で引き返して来るのが見え、その後、また庭で洗濯物を干していると、男が甲田美容室前の自動車のドアを開けて上半身を乗り入れ、バッグのような物を取ったのが見えた。」「その男は、赤色のシャツあるいはジャケットを着て、坊主頭で、顔は面長で浅黒くサングラスをかけ、四、五〇代のやくざ風の男だった。」以上である。

2  丙川の同一性確認の程度について

ところで、丙川は、証人尋問期日において、以上の目撃状況と犯人の人相・風体の証言に引続き、犯人と被告人との同一性の確認を求められた際、「現段階では覚えていない。」旨証言し(〈証拠〉)、また、捜査段階での供述に関して、「写真面割や面通しの時は、髪型とか雰囲気は似ていると思ったが、その男が犯人に間違いないというようなことは一度も言っていない。」旨証言した(〈証拠〉)。ところが、その後の第四回公判期日に証人として出廷した岩槻署の前記乙山は、「丙川は、写真面割の際、被告人の写真を抜き取り、この男に間違いないと述べた。」(〈証拠〉)、「丙川の証人尋問期日後、同女に事情を聞きに行ったところ、同女は、証人尋問の際は、後ろに被告人がいたので、恐くて、警察や検察庁で述べたことが言えなかったと言っていた。」(〈証拠〉)旨証言し、また、検察官が、丙川の再度の証人尋問を請求した第五回公判期日に、証人尋問の必要性を疎明する資料として提出した丙川の検察官に宛てた手紙(写し)には、「証人尋問期日には犯人も来ていたので恐いし、警察や検察庁で話したことがなかなか言えなかった。私の言った通りのことを調書に書いてもらってある。」旨記載されているので、前記の証言の信用性が問題となる(なお、検察官による丙川証人の再尋問請求は、第六回公判期日において、同証人が出頭を渋っているとの理由により撤回された。)。

しかし、〈1〉丙川は、証人尋問期日において、「後ろに被告人がいるが、恐くはない。被告人がいることで、遠慮している点もない。取調べのときと同じように率直に述べている。」旨明言していたのであり、その証言内容全体を通観しても、同女が、被告人の在席を気にして、ことさらに証言をあいまいにしようとしたりしているような形跡は窺われず、むしろ、右証言は、自己の記憶に忠実に、甚だ率直・明快になされているというべきである(同証人の証言に、そのような不自然な点が窺われなかったからこそ、検察官も、右証人尋問期日において、同証人に対して弾劾尋問をしたり、被告人の退席を求めた上で尋問する等の措置に一切出なかったものと認められる。)。〈2〉そうすると、丙川が、証人尋問終了後、警察官に対し、何故に前記のような発言をしたり、わざわざ検察官に手紙を書いたのかが問題となるが、右の点については、右供述等は、同女に対する証人尋問の終了後、検察官の命を受けた警察官二名から面談を求められた同女が、証言内容につき問いただされた結果に基づくものであり(乙山証言参照)、同女が自発的にそのような供述をするに至ったものではないことに注目する必要がある。同女は、もともと本件とは何らの利害関係を有しない純然たる第三者であって、本件犯行をたまたま目撃したところから、犯人と疑われている人物の面前において、犯人との同一性の識別を求められるという困難な立場に立たされたものであり、事件とこれ以上かかわりを持ちたくないと考えるのは当然の心理であるから、たとえ、同女が、捜査段階の供述調書の内容に絶対の自信を抱いておらず、証人として供述した内容の方が自己の記憶に忠実であると考えていたとしても、警察官から、証言と供述調書の内容の矛盾を指摘されて再度の出廷・証言を求められたとすれば、前記のような弁解をして出廷を拒みたいという心境になることは十分考えられるところであるから、同女の警察官に対する前記供述等を、その額面通りに受け取ることは危険である。〈3〉そこで、更に進んで、同女が面割の際にしたとされている「被告人が自分の見た犯人に間違いない。」という供述の信用性について検討するのに、同女は、当初、犯行場所から約八〇メートル離れた自宅から犯人を目撃し、その後、犯人が自宅の裏の道路を自転車で通り過ぎるのを二回目撃したというのであるが、右目撃の条件・状況等に関する後記3記載の事情を前提とする限り、右は、目撃から四〇日以上経過した時点において、同女が、当時目撃した人物と被告人が同一の人物である旨断言できるような状況でなかったことが明らかであるから、かりに、面割当時に同女が前記のような供述をしたことがあったとしても、これを直ちに信用するのは危険であるし、むしろ、面割当時、同女が真実そのような供述をしたのか否かにすら疑問が生ずるといわなければならない。

以上の諸点を総合すると、被告人と犯人との同一性を断定できないとする丙川の証人尋問期日における供述の信用性は、乙山証言に現れた同女の捜査段階の供述等によっては、何ら減殺されないというべきである。

3  目撃状況及び面割過程の問題点について

前記のとおり、丙川は、被告人及び被害者と何らの利害関係を有しない純然たる第三者であること、同女が犯人の挙動を不審に思い、かなりの程度意識的に、しかも、ある程度の時間継続して目撃したこと、当時の明るさや丙川の視力などに問題がなかったことからみると、前記丙川供述は、一般的にいって客観性・信用性の高いものといってよいであろう。しかしながら、さきにも一言したとおり、同女が一定の地点にとどまっている犯人を目撃したのは、八〇メートル以上も離れた地点からのことであり、その後、同女は、自転車に乗って移動中サングラスをかけた犯人の姿を、最も良く見えた地点でも四〇メートル以上離れた地点から目撃したに過ぎないのであるから(〈証拠〉)、かかる目撃によって、同女が犯人の服装、髪型その他の顕著な特徴以上にその顔の特徴まで的確に把握したとは、到底考えられないというべきである。

次に、丙川証言、乙山証言及び押収してある被疑者写真一綴り(〈証拠〉)を総合すれば、丙川が、捜査官に対し、被告人が犯人に似ている旨供述するに至った経過の概要は、ほぼ、次のとおりであったと認められる。前記二1〈3〉記載のとおり、警察は、本件の被害発生の直後に、目撃者丙川の存在を把握していたのに、本件の捜査上最も重要な目撃状況に関する同女からの事情の聴取を警察がしたのは、事件発生から一ヶ月以上も経過してからのことであった。そして、丙川は、警察官により提示された五枚の写真の中から、髪型や雰囲気が犯人の特徴に似ているようだとして被告人の写真を選び出し、その後、岩槻署で透視鏡による面通しを行った際は、室内に一人でいる被告人が「自己が目撃した犯人かどうかわからないが、髪型や雰囲気は似ている」旨供述した。以上のとおりである。

このように、本件面割過程においては、記憶の新鮮なうちに目撃者から犯人の特徴を聴取しておくという、捜査機関として当然なすべき捜査がなされていないため(この点につき、乙山は、「被害申告直後は、他の事件の捜査中であったので、目撃者方へ行けず、二、三日後に行ったが、留守で会えなかった。」旨供述するが〈証拠〉、最も重要な目撃者からの事情聴取を一ヶ月以上も放置した理由としては、合理性に乏しい。)、写真面割及び面通しまでに、丙川の記憶が相当程度減退・変容していた疑いがあるといわなければならない。そして、更に、本件写真面割については、用いられた写真が五枚と比較的少数である上、警察官は、予め丙川から「犯人は坊主頭の人であった」旨聞いていたのに、明白な坊主頭の被疑者写真は被告人のものしか示していないこと(乙山は、被告人の写真のほかにも、坊主頭のものを一枚混ぜた旨証言するが、押収してある被疑者の顔写真五枚〈証拠〉の中には、被告人の写真と同様に一見して坊主頭とわかる写真は、見当らない。)、丙川は、その際に、犯人は既に逮捕されている旨聞かされているので(〈証拠〉)、同女が意識すると否とにかかわらず、示された写真の中に犯人のものが必ずあるとの予断に捉われて面割をした疑いを否定し切れないことを、また、面通しについては、現に面通しを受けている男が、写真で選んだ男と同一人であるとの前提でなされており(〈証拠〉)、しかも、信用性に問題のある単独面接であること、面通しの前に、「証拠品も上がっている。」旨の誘導すら受けていること(〈証拠〉)等の問題点をそれぞれ指摘することができ、これらの点からすると、丙川供述中、犯人の特定上意味があるのは、「自己の目撃した犯人は、サングラスをかけ、赤っぽい上衣を着用し、坊主頭で自転車に乗った、面長で色浅黒くやくざっぽい雰囲気の中年の男であった」とする部分に限られ、右供述部分自体についてすらも、時の経過や識別過程に存する重大な欠陥によって、ある程度の変容を受けている可能性を全く否定することができないというべきである。

4  丙川供述に現れた犯人の特徴と被告人のそれとの一致の程度

丙川供述に現れた犯人の特徴のうち、〈1〉赤っぽい上衣を着用し、〈2〉サングラスをかけ、〈3〉自転車に乗っていたという三点は、かなり顕著な特徴であって、右特徴は、被告人自身が認めている当時の被告人のいでたちと、ほぼ符合しており、また、〈4〉坊主頭の点は、逮捕当時の被告人の髪型と、〈5〉顔色が浅黒いという点は、乙山証言等に現れた逮捕当時の被告人の顔色と、それぞれ一致している(右四点のほか、〈6〉年配、〈7〉顔立ち(面長)、〈8〉やくざっぽい雰囲気の点も問題となるが、〈6〉〈7〉は、さしたる特徴ではないし、〈8〉は、〈1〉〈2〉〈4〉と離れて独立の意味があるか疑問である。)。

そして、右のとおり、丙川供述に現れた犯人の特徴のうち、〈1〉ないし〈3〉の点が、被告人自身が当時の自己のいでたちとして認めているそれとほぼ符合しており、また、同じく〈4〉〈5〉の点が、逮捕当時の被告人の髪型及び顔色と一致しているとされていることは、これらの点が直ちに被告人を犯人と断定するに足りるものではないにしても、犯人と被告人の同一性を推認させる上で、ある程度の証拠価値を有する間接事実であることは、これを否定することができないであろう。

しかしながら、証拠を仔細に検討すると、丙川供述に現れた犯人の特徴のうち〈1〉〈4〉〈5〉の三点は、厳密にいうと、当時の被告人のそれと一致するといえるか否か疑問が残り、むしろ、被告人と犯人との同一性に疑問を提起する事情であるとすらいえないことはない。

まず、右〈1〉の着衣の色、形状について、丙川は、証人尋問期日において、本件当時被告人が着用していたと認めている赤色ジャンパー(〈証拠〉)を見て、「色は、もう少しオレンジがかった感じであり、丈はもっと短い、シャツのようなものと思った。」旨証言している(〈証拠〉)ところ、丙川が二〇代の若い女性で、通常、色彩や着衣の形などに、男性に比べ極めて敏感な感性を持っていると推認されることを考慮すると、丙川供述に現れた犯人の着衣と被告人のそれとの右のような食い違いを、検察官が主張するように、犯人が自転車に乗っていたこととか、証人尋問が実際の目撃の際とは異なり室内で行われたということだけで説明することができるかどうかについては、疑問が残るといわざるを得ない(なお、検察官が、ジャンパーをズボンの中に入れていたことも考えられるとする点については、賛成し難い。)。

次に、〈4〉髪型については、丙川供述に現れた犯人の髪型はいわゆる坊主頭ということであるが、坊主頭と一口に言っても、完全な坊主頭と、いわゆる角刈などの一部伸ばしたものとは、その受ける印象においてかなり差異があると認められるから、丙川のいう「坊主頭」がどのようなものであったかが問題となる。ところで、丙川は、「どんな坊主刈りかというのはわからない」旨証言しているが(〈証拠〉)、写真面割の際に完全な坊主頭の被告人の写真を選び出した根拠として、「一番印象に残っていたのは髪型であり、その辺を見た」旨証言している(〈証拠〉)ことからすると、丙川の認識したのは、完全な坊主頭の人物であった可能性が高いと認められる。そこで、本件当時の被告人の髪型について検討するのに、髪型に関する被告人の供述は、「七月一日に、理髪店で完全な坊主頭にしてもらったが、それ以前は、『短めのオールバックでアイロンで寝かせたもの』(〈証拠〉)、『結果的に、スポーツ刈りで若干長め』(〈証拠〉)であったというものである。そして、被告人が同年四月一九日頃から五月三日頃まで勤務した有限会社○○建設の社長B(以下、「B」という。)は、その当時の被告人の頭髪について、「角刈り」(〈証拠〉)とか「普通のサラリーマンの髪型よりも短めで、小ざっぱりしていた。」(〈証拠〉)とか「バリカンで刈ったんじゃなくて、はさみを入れた感じ」(〈証拠〉)などと証言して、一応、被告人の供述を裏付けており、これに反する証拠は見当たらない。もちろん、その後、被告人が、右のような髪型から完全な坊主頭に変えたのが本件犯行前であったという可能性もないではないが(「完全な坊主頭にしたのは、本件犯行日とされる日よりあとの七月一日である。」という被告人の供述については、弁護人の調査にもかかわらず、遂に客観的な裏付けが得られなかった。)、右はあくまで一個の可能性に止まり、これを裏付ける証拠が全く存在しない以上、〈証拠〉供述中、犯人の髪型に関する部分は、犯人と被告人の同一性を推認させる事情ではなく、むしろこの点に疑問を提起する一事情であると考えるべきである。

更に、〈6〉顔色の点は、そもそも微妙な点であり、丙川供述中「犯人の顔色が浅黒かった」とする部分がどの程度の色の黒さをいうものかが明らかでない以上、逮捕当時の被告人の顔色との厳密な比較は不可能であるが、被告人を逮捕した乙山は、七月六日の逮捕当時被告人の顔色は相当黒かった旨証言しており、右両証言に現れた人物(犯人と被告人)の顔色は、いずれも「浅黒い」ないし「相当黒い」という点で共通点があることは事実である。しかし、当裁判所が公判廷において観察した結果によれば、被告人は、もともとかなり色白のたちで、現在では、日焼けの痕跡は全く止めていないと認められるところ、色白の人は、日に焼けると皮膚が赤くなることが多く、かつ、このような日焼けは多少の日時の経過により容易に消失すること、被告人の顔色は、○○建設の現場で働いていた当時でさえ、いわゆる労働者の黒さではなく普通の色であったとされていること(〈証拠〉)、本件当時、被告人は、何ら稼働しておらず、終日日光に身をさらすような生活をしていたとは考えられないこと等に照らすと、本件当時の被告人の顔色が「浅黒い」という表現を適当とするものであったかどうかについては、疑問の余地があるというべきである(なお、警察官は、逮捕当時の被告人の顔色を、カラー写真等により明確にしておく等の措置にも出ていないので、逮捕当時の被告人の顔色すら証拠上的確に把握することができない。)。

5  丙川供述に関する結論

このようにみてくると、丙川供述に現れた犯人の特徴のうち、確実に被告人のそれと一致するものは、〈2〉サングラスの着用及び〈3〉自転車の乗用、〈6〉年配(中年)、〈7〉顔立ち(面長)の四点(赤っぽい着衣の着用の点を含めても五点)だけとなり、それだけでは、犯人と被告人との同一性を推認する上で甚だ不十分である上、右に指摘したとおり、仔細に検討すると、丙川供述中の犯人の特徴に関する部分の中には、〈1〉着衣の色、形状、〈4〉髪型、〈5〉顔色の点など、むしろ、犯人と被告人との同一性に疑問を提起するものも含まれているのであるから、右丙川供述が、犯人と被告人との同一性を認定する上で有する証拠価値は、いずれにしても、余り高くないといわなければならない。

五  検察官指摘のその余の論拠について

1  緒説

以上のとおり、本件においては、犯人と被告人との同一性を肯定する上で主要な論拠となるべき盗品の近接所持の事実及び丙川による識別供述が、いずれもその証拠価値に問題があり、個々独立にはもちろん、その双方を併せても、合理的な疑いを超えて右同一性を肯定させるには到底足りないというべきであるが、それでは、検察官指摘のその余の論拠は、右同一性の認定上、どのような意味、どの程度の価値を有すると考えるべきであろうか。

前記二2において指摘しておいたとおり、検察官が掲げているその余の論拠は、次の五点、すなわち、〈1〉被告人が、本件以外の盗品又は盗品と推測されるものを多数所持していたこと、〈2〉被告人は、本件当時、所持金に困っていたこと、〈3〉本件現場付近に行ったことがない旨の被告人の供述は措信し難いこと、〈4〉被告人には、アリバイがなく、アリバイの主張すらしていないこと、〈5〉被告人には、同種前科を含む財産犯の前科があることという五点に尽きるところ、右のうち、まず、〈4〉〈5〉の如きは、犯人と被告人との同一性の認定上何らの価値を有するものではないことが明らかである。すなわち、〈4〉アリバイの不存在自体は、もともと、被告人に有利でも不利でもない中立的な事実のはずであって、特別の場合(例えば、犯人と疑われる者が何人かの特定の者に絞られていて、他の者にはアリバイが成立するのに被告人にはアリバイがないというような場合。本件が、右のような特別の場合にあたらないことは、明らかなところである。)以外は、アリバイ不成立の事実から直ちに被告人に不利に心証を抱くことが許されないのは当然のことであるが、特に本件においては、被告人が本件により逮捕され取調べを受けるまでに、事件後一月以上の日時が経過しているのであって、当時、定職を持たず、岩槻市内の公園等において連日無為に時を過ごしていたという被告人に対し、一月以上も前の特定の日の特定の時間帯における自己の所在・行動を思い出しその立証をせよと求めるのは、無理難題以外の何ものでもないというべきである。また、〈5〉の前科の点も、被告人に同種前科があるという事実を本件の罪体に関する有罪の証拠として用いることが許されるのは、右前科にかかる犯行と本件犯行の各手口・態様が特異な共通性を有する等特別の場合に限られると考えるべきところ、被告人の財産犯の前科七件のうち、窃盗罪によるものはわずか二件に過ぎず、しかもかなり古いものであって(一件は、昭和三九年一〇月、他の一件は同五一年七月各宣告)、いずれの犯行についても、本件と共通する手口の特異性があるとはいえない(本件が、いわゆる車上狙いであるのに対し、前科にかかる各犯行は、いずれも屋内忍込み窃盗である。)。

次に、前記〈1〉ないし〈3〉の点は、いずれも本件に関する有罪の立証に全く役に立たないというものではないが、その持ち得る意義は、いずれにしても極めて制約されたものと考えるべきである。すなわち、まず〈1〉の点については、被告人が本件各盗品以外にも、盗品又は盗品と推測されるもの(以下、一括して「盗品」という。)を所持しており、右物品の入手状況に関する被告人の供述が必ずしも首肯し難いというだけでは、これを本件に関する有罪立証をいささかでも補完するものと考えるべきではなく、ただ、右盗品の入手状況に関する被告人の供述が積極的に虚偽であると判明した場合(虚偽である蓋然性が著しく高い場合を含む。以下、同じ。)に限って、かかる虚偽の弁解をする被告人は、本件盗品の入手状況についても虚偽の弁解をしているのではないかという推測を容れる余地を生じ、右供述の証明力が減殺されることになる結果、間接的に有罪立証に役立ち得るに過ぎないと考えるべきである。右の点につき、検察官は、あたかも、被告人が、本件盗品以外にも多くの盗品を所持していたこと自体、又は、これらの物品の入手状況に関する被告人の供述が必ずしも合理的でないということ自体が、本件の有罪立証に役立ち得るかのような主張をしているが、検察官が、一方において、これらの盗品の窃取行為については、公訴提起をせずにおきながら、右盗品所持等の事実を本件の有罪立証に役立てようとするのは、公訴提起をすれば無罪と判断される蓋然性のある余罪事実を(検察官が、余罪事実につき公訴提起をしない理由は必ずしも明らかではないが、本件のような比較的軽微な窃盗の事実について起訴価値を認めた検察官が、余罪につき公訴提起をしないのは、余罪についての有罪立証に自信を有していないからであると考えるほかはない。なお、右余罪事実が併せて起訴された場合に、余罪事実につき証拠不十分として無罪の判断をしながら、余罪に関するなにがしかの嫌疑の存在を、本件に関する有罪立証の心証形成上利用することの不当なことは、何人にも異論がないであろう。)、公訴提起しないことによって、かえって本件の有罪立証を補完するものとして利用することに通じ、到底容認できるものではない。次に、〈2〉の所持金の点が、かりに検察官の主張のとおりであるとすると、被告人には窃盗の動機があったことになるが、動機があるからといって、被告人が本件犯行を犯すとは限らないから、右の点が、本件の有罪立証に役立ち得る限度は、いずれにしても大きくないというべきである(なお、右の点についても、被告人の供述が、積極的に虚偽と判明した場合に、この点が間接的に本件の心証形成に影響を及ぼし得るのは、〈1〉の場合と同様である。)。更に、〈3〉の点も、それが本件の有罪立証にいささかでも役立ち得るのは、この点に関する被告人の供述が虚偽であると判明した場合に限られることは、すでに詳述したところから明らかであると考えられる。

そこで、以下においては、以上の前提に立って、〈1〉ないし〈3〉の点につき、証拠上の検討を加えることとする。

2  他の盗品の取得状況などについて

逮捕当時の被告人の所持品中には、盗品であることが明らかな小切手と自転車があったことが認められる。前者は、平成元年七月一日に、岩槻市〈住所省略〉のA方から窃取されたものであるところ、被告人は、「江戸川競艇場で、東という男から借金のかたに受け取ったものである」旨供述している。後者は、同年五月末頃に、同市〈住所省略〉のC方から盗まれたものであるところ、被告人は、「五月の末頃に、岩槻公園で、宇都宮から来たという知らない男から頼まれて、五〇〇〇円で買った」旨供述している。また、乙山証言によれば、被告人の逮捕当時の所持品中、江戸ステンレス及びオートバックスの各テレホンカードやラークのライターは、同年五月二四日に同市〈住所省略〉のD方から盗まれたものとされているが、被告人は、「右テレホンカード二枚はもらったものだが誰からもらったか覚えていない。ライターはどこでも手に入る。」と供述している。更に、同じく被告人の逮捕当時の所持品のうち、乳幼児の写真のテレホンカードと米ドルについて、被告人は、「以前稼働していた△△建設の同僚の吉田某という四〇歳位の男からもらった。」旨供述しているが、その点を捜査した乙山は、そのような人物は△△建設にいなかった旨証言している。

確かに、これら盗品の入手状況に関する被告人の供述は、いずれも必ずしも合理性が高いとはいえず、何人にも容易に納得してもらえる程の説得力を有しないことはもちろんであるが、逆に、これが明らかに虚偽であるとも断定できないことは、本件小銭入れ等の場合と同様である(なお、被告人が、乳幼児の写真のテレホンカードと米ドルをもらったという吉田某なる人物は、乙山証言によれば、被告人のいう△△建設に勤務していた形跡がないとの由であるが、乙山警察官が確認したという△△建設の稼働台帳は証拠として提出されていないし、そもそもそれがどの程度の信用性を備えたものであるかの立証も、全くなされていないから、右乙山証言のみによって、この点に関する被告人の供述を虚偽であると断ずるのは相当でない。)。

3  被告人の所持金について

次に、〈2〉所持金の点につき検討するのに、被告人は、公判廷では「○○建設を辞めた時に四八万円持っていたが、生活費や競艇で使ってしまい、逮捕時には八〇〇〇円弱になっていた。」旨供述するが、捜査段階においては、そのような大金の所持については供述せず、むしろ生活費にもこと欠く状態である旨の調書が作成されている(〈証拠〉)。ところで、被告人は、そのような調書が作成された理由として、「金があるかとは、聞かれなかったので言わなかった。金がない旨の調書は捜査官の作文である。」旨供述するが、これは甚だしく説得力を欠く。そして、右の点に加え、「被告人が、○○建設を辞めるとき、同僚に借金があった。また、幾ら持っているんだと聞いたら、小銭を見せられた。」旨のB証言をも併せ考えると、前記被告人の供述についてはその信用性にかなり疑問があるといわなければならない。従って、このことが、間接的に本件被害品の入手状況についての被告人の供述の信用性をなにがしか弾劾するものであることは疑いを容れないが、本件窃盗の嫌疑をかけられて取調べを受けた被告人が、全く身に覚えのないまま捜査段階において自己の所持金につき正直に供述したのち、当時乏しい所持金しか有していなかったことが自己の嫌疑を深める結果となることに気付いたとすれば、公判廷においては、少しでも自己の嫌疑を晴らそうとして、所持金の点につき事実に反する弁解をし出すということも十分考えられるところであるから、所持金の額に関する被告人の公判廷における供述が事実に反する疑いが強いとしても、そのことを決定的に重視して本件に関する有罪の心証を形成するのは、合理的な採証の態度ではないといわなければならない。

4  本件現場付近には行ったこともない旨の被告人の供述について

更に、被告人は、岩槻市の中心部を離れて、本件現場付近には全く行ったことがない旨供述しているところ、本件現場から程遠くない同市〈住所省略〉で酒店を営む前記Aは、「前記小切手の件で七月初旬に警察に呼ばれた際、透視鏡で被告人を見て、以前、自分の店に買物にきた男とすぐわかった。職業柄、顔の雰囲気で、以前店に来た人間か否かは、間違いなくわかる。」旨証言しているところ、右証言は、同人が日常接客を業とする者で、その職業柄、接した客の特徴を記憶する能力において通常人より優れたものを有していると推認されること、同人の証言内容は断定的で、その態度も自信に満ちたものであったこと等からみて、一見、極めて高度の信用性を有するようにも考えられるが、他方、同人は、自宅から窃取された小切手を所持していた被告人が、被害の日から何日も経過しない時点で、右小切手を銀行で換金しようとしながら、その窃取を否認しているということから、被告人に対し著しい悪意ないし偏見を抱いていることが、同人の証言自体から明らかであって、このような場合には、証人が、(意識的か無意識的かは別として、)実際に経験した以上に被告人に不利益な供述をすることが十分考えられるから、同人の証言を、その額面どおりに受け取ることは危険であるといわなければならない上、同人は、被告人が自分の店に来たことがあるとしながら、その時期を特定することができず、もとより、自己が目撃した被告人の風貌の特徴を具体的に描写することもできなかったことなどを考慮すると、A証言のみを根拠に、「〈住所省略〉の酒店に行ったことがない。」とする被告人の供述を虚偽と断ずることはできない。

六  総括

以上の検討結果を総括すると、次のようになる。

本件窃盗の犯人は被告人であるとする検察官の主張を支える主要な証拠は、1犯行後二二日を経過した時点で、被告人が被害品の一部を所持していたのに、その入手状況に関する被告人の弁明が、必ずしも説得的ではなく、右弁明を支えるべき証拠は提出されていないこと、2犯行の状況等をやや距離を置いて目撃した証人丙川の供述中、目撃した犯人のいでたち等に関する部分(〈1〉赤っぽい上衣の着用、〈2〉サングラスの着用、〈3〉自転車の乗用、〈4〉年配、〈5〉顔立ち(面長)等)は、被告人が自認している当時のそれと合致し、更に、〈6〉髪型、〈7〉顔色などの点も、逮捕当時の被告人のそれと一致していた可能性があることの二点であり、その余の証拠のうち、有罪立証に多少とも役立ち得ると思われるものは、3本件当時、四八万円もの大金を所持していたという被告人の供述は、事実に反する疑いが強く、当時の被告人の所持金は乏しかったと認められるので、被告人には犯行の動機があるとともに、所持金につき事実に反する疑いの強い弁解をしている被告人は、本件盗品の入手状況についても虚偽の弁明をしているのではないかとの疑いを容れる余地があるという点だけである。検察官指摘のその余の事情は、被告人を犯人と認定する上で、いささかでも意味があると考えるべきではなく、他に、右認定を支えるべき証拠ないし事実関係は、これを見出すことができない。

これに対し、被告人と犯人との同一性に疑いを生じさせる事情としては、1については、被害の発生と被告人の盗品の所持の各時点の間に二二日間という間隔があって、その間に、被告人が窃取以外の方法でこれを入手する蓋然性が相当程度考えられる上に、その入手状況に関する被告人の弁明も、著しく不合理・不可解であるとか、証拠に照らして虚偽であると断ずることはできないこと、2については、丙川供述中、〈1〉着衣の色、形状の点、〈5〉髪型の点、〈6〉顔色の点などは、厳密にいうと、当時の被告人のそれと矛盾する疑いがあり、その余の点を含めても、右丙川供述が、犯人と被告人との同一性を認定する上で有する証拠価値は、余り高くないと考えられること、3については、犯行の動機があるというだけでは、被告人を犯人と断定する上でさしたる意味があるとはいえず、所持金に関する供述が虚偽であるからといって、そのこと故に、盗品の入手状況に関する弁明の信用性に重大な疑いが生ずるとまではいえないことなどの点を指摘することができる。

このようにみてくると、前記1ないし3の諸点は、被告人を犯人と認定する証拠としては、いずれもその証拠価値に問題があり、個々に検討すればもとより、全体を総合しても、被告人が、本件盗品を窃取以外の方法で入手したのではないかとの合理的な疑いを払拭するに至らないというべきである。

七  結論

以上のとおりであって、本件公訴事実についてはその証明がないことに帰着するから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 木谷明 裁判官 木村博貴 裁判官 水野智幸)

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